雲頂菴は臨済宗にして鎌倉五山第二の瑞鹿山円覚興聖禅寺
(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)
の塔頭
(たっちゅう)
です。
もとは、禅宗では五山・十刹に次ぐ寺格「諸山
(しょざん)
」に列せられていた大崎山
(おおさきさん)
長勝寺の塔頭でした。
長勝寺は1296年大覚禅師・蘭渓道隆 (らんけいどうりゅう) の法嗣 (はっす) 、仏燈国師・約翁徳倹 (やくおうとくけん) により創建され、その後、二世・空山円印 (くうざんえんいん) が寿塔として雲頂菴を開きました。開基は長勝寺、雲頂菴とも明らかではありません。
鎌倉幕府滅亡後、鎌倉の諸寺院はその存続も危ぶまれましたが、雲頂菴は多くの寺と同様に、後醍醐天皇の保護により、それまで所有してきた領地を安堵され、大きな混乱もなく寺勢を保ってきました。これを裏付けるものとして、当菴所蔵の後醍醐天皇論旨 (りんじ) があり、弘安3年(1333)前後の雲頂菴は健在であったことがわかります。
しかし、室町時代に入り、長勝寺は衰退し廃絶。雲頂菴もまた、鎌倉中を巻き込んだ永亨 (えいきょう) の乱(1438年)によりすっかり衰え、かろうじて命脈を保っていたところ、文明年間1460年前後から、主の関東官領上杉氏を抑えて台頭してきた長尾氏(長尾尾張守忠景、顕忠父子等)が後ろ盾となって再興し、円覚寺内・大覚派の拠点として勢いを得ました。
中世から近世への橋渡しの時期に、雲頂菴は円覚寺において、同じ大覚派の法珠院 (ほうじゅいん) 、龍隠庵 (りゅういんあん) とともに、中心的な役割を果たしました。
江戸時代より後は円覚寺の塔頭に入り今日に至っています。
長勝寺は1296年大覚禅師・蘭渓道隆 (らんけいどうりゅう) の法嗣 (はっす) 、仏燈国師・約翁徳倹 (やくおうとくけん) により創建され、その後、二世・空山円印 (くうざんえんいん) が寿塔として雲頂菴を開きました。開基は長勝寺、雲頂菴とも明らかではありません。
鎌倉幕府滅亡後、鎌倉の諸寺院はその存続も危ぶまれましたが、雲頂菴は多くの寺と同様に、後醍醐天皇の保護により、それまで所有してきた領地を安堵され、大きな混乱もなく寺勢を保ってきました。これを裏付けるものとして、当菴所蔵の後醍醐天皇論旨 (りんじ) があり、弘安3年(1333)前後の雲頂菴は健在であったことがわかります。
しかし、室町時代に入り、長勝寺は衰退し廃絶。雲頂菴もまた、鎌倉中を巻き込んだ永亨 (えいきょう) の乱(1438年)によりすっかり衰え、かろうじて命脈を保っていたところ、文明年間1460年前後から、主の関東官領上杉氏を抑えて台頭してきた長尾氏(長尾尾張守忠景、顕忠父子等)が後ろ盾となって再興し、円覚寺内・大覚派の拠点として勢いを得ました。
中世から近世への橋渡しの時期に、雲頂菴は円覚寺において、同じ大覚派の法珠院 (ほうじゅいん) 、龍隠庵 (りゅういんあん) とともに、中心的な役割を果たしました。
江戸時代より後は円覚寺の塔頭に入り今日に至っています。
宗旨 臨済宗 円覚寺派(円覚寺塔頭)
開創 1275年
開創 1275年
本尊 宝冠釈迦如来
開山 空山円印(大覚禅師蘭渓道隆の直弟)嘉暦3年(1328)11月11日示寂
開基 不詳 中興開基 長尾忠景
山号 大機山
開山 空山円印(大覚禅師蘭渓道隆の直弟)嘉暦3年(1328)11月11日示寂
開基 不詳 中興開基 長尾忠景
山号 大機山
◆注
塔頭:禅宗寺院の高僧の死後、弟子がその徳を慕い構えた墓塔や庵
諸山:禅宗寺院の官寺制度における3段階からなる寺格のひとつ。最高位が五山
法嗣:師の教え、仏法の奥義を受け継いだ弟子
寿塔:生存中に、その人の長寿や功績をたたえて建てられた塔
開基:仏寺創建の際、財政的支持・支援を行う世俗の人。禅宗では、開創の僧である「開山」と 区別していう
綸旨:天皇の側近が、天皇の意向を受け作成した文書。※ここでは、雲頂菴領をこれまでどおり支配してよいと保証した文書
塔頭:禅宗寺院の高僧の死後、弟子がその徳を慕い構えた墓塔や庵
諸山:禅宗寺院の官寺制度における3段階からなる寺格のひとつ。最高位が五山
法嗣:師の教え、仏法の奥義を受け継いだ弟子
寿塔:生存中に、その人の長寿や功績をたたえて建てられた塔
開基:仏寺創建の際、財政的支持・支援を行う世俗の人。禅宗では、開創の僧である「開山」と 区別していう
綸旨:天皇の側近が、天皇の意向を受け作成した文書。※ここでは、雲頂菴領をこれまでどおり支配してよいと保証した文書
本堂の宝冠釈迦如来と望岳殿